【かむながら】のひとり旅

御祭神の名も知らぬままにはその功徳を得らるることはなぎせむ

古事記、日本書紀に記されし神話を知らず神威を心知ることはなぎせむ

鎮座されしかたに行かで気持込めて奏すべからじ

【かむながら】の旅はひと段落ついたとして。

1月21日の出雲大社参拝をもちまして参拝を休止することにしました。

(時々は1社2社と神社にお詣りすることもあると思いますが)


神社参拝を始めてから半年間は

呼ばれたらすぐに行かなければ
できるだけ沢山行かなければ
順番通りに行かなければ
ここに行くならここにも行かなければ
関連ある場所にはすべて行かなければ

そう感じておりました。

神様の掲示なのに(直接私の脳を使って指示されているのに気付かず)あたかも私自身の考えであるかの如く行動して参りました。
神社参拝は4カ月でお詣りさせて頂いた神社は大小併せ約300…素晴らしい体験をさせて頂きました。
現実のこととは思えない…夢のような時間を過ごしておりました。

半年経過しペースダウンし始めました。とはいえ、一般的な神社参拝よりも多いとは思います。ですが「呼ばれている」という感覚が薄れてきたのです。

「呼ばれている」のイメージで表現するなら日本地図上にキャンドル🕯を立てて火を灯す感じ。一気にあちこちの都道府県に大小のキャンドルが数十本立てられたと思ったら火が点き、参拝を終えたら消されるけれど終えたと同時に関連のある神社に灯りが灯る。1本点けばその近辺鎮座されている神様が「こっちこっち」と言わんばかりにいくつも点灯されていくような…
それが長野県に足を踏み入れたと同時期に減速され、終盤を迎えたと感じ始めました。今までと何かが違って鈍いような気がしました。

たまゆらの旅Ⅳ

記憶を記録し憶いを思い出すために。

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